倉智久美子展 トークイベント (後編)

「私はアトリエにひとりでいる時間をとても大切に考えている。簡単な角柱や平凡な四角いキャンバスなどを一日中じっと見ている。それはモノであって、未だ芸術ではない。それをどうやって芸術にするのか、それを壁にかけるのか、それを床に置くのか、その色を壁や床にも塗り広げるのか、それは存在しているのか、それはそのように見えているだけなのか、長いこと考えて、彩色の構図を決める。」
<倉智久美子「アーティストの言葉 佐賀町アーカイブでの展覧会に寄せて(2016.1.4)」より>

梅津 この箇所も非常に印象的です。ジャッドが展示室で長く過ごすことから作品の着想を得るのと同じように、アーティストの中で作品がどのように立ち上がってくるのか、そこにとても興味があります。コンクリート・アート、コンクリート・クンストという言葉を倉智さんから提示していただきましたが、存在していない作品を存在する形にもっていく、そのためにアトリエで過ごす長い時間と、作品化の過程をお聞きしたい。簡単に言葉では語れないことは重々分かっていますが、ここで書かれていることを、もう少し実態に近いレベルで伺いたいです。
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倉智 いや、きっと感覚的にわかってもらっていると思うんですが、なかなか上手に説明できないですけれどーー。たとえば、これだってなんでもないものですよね、ぺらいなんでもないもの。これを芸術にしようと思うと、やっぱり何かしなきゃまだ芸術ではない。どういうふうに置くか、本だからめくるのか、めくっていく時に何を感じるのか、あるいはこうページを開いて立てかけてものにするのかーー。こういうことは、いつもいつも私とともにあって、考えます。これで説明になっているでしょうかね。空間にすうっとロープを張った、これで空間の見え方がぽんと変わって、これだけが切り取られた空間になる、そのあと壁に色を塗りました、そしてその中にも作品を入れ、外にも入れました。これは作品の限界がどこまでなのかちょっとよくわからない、ですが、空間から何かが立ち上がってくる。色彩、そして空間。これは非常に実験的な私の仕事です。自分は気に入っているんですけれども。なんて説明したらいいんでしょう……、説明できないから作っているんです!
梅津 いま私が読ませていただいた文章のなかで、アトリエで過ごす時間のことが書かれています。どこかで展示が決まっていたとしても、単体で成立する作品をアトリエで構想するという段階が重要でしょうか。
倉智 私はいつも作っているっていう状態を目指しているので、展覧会があるから作るっていうことはないです。
梅津 はい。一方で、この作品にしても、発表の空間に即して計画を考えることもあるわけですよね。
倉智 そうです。わりとこのあたりは自分のためにやった実験のような仕事でね、自分はそんなことがすごく好きで面白かったんです。これも自分のためにやった実験的な仕事で、この右側の正方形は私の身長165センチ角なんですが。こういうふうに壁にテープを貼っただけですけど、こうした時に何が空間から立ち上がってくるのか。それと対話する形で正方形の作品を置いたり、角柱を置いたり。これ、結論はなくて、自分のためにした仕事です。
梅津 自分で構想したことを形にして、展示空間を実現して、それを自分でまた反芻する、受けとめる。
倉智 そうです。
梅津 そのプロセスがすごく大事ということですよね。
倉智 これはすごく楽しかった。次のも見てください。これもちょっとおかしいでしょ。角柱と、その角柱を描いたスケッチがあるじゃないですか。これが立体だからスケッチしたくなるわけ、絵を見てスケッチをしたくなるっていうことはない。私はスケッチをする、なぜならこれが立体だから、っていう。まあそんな感じの理論ですよね。その次は、先ほどの165センチ角の正方形の外側を白く塗ったの。これは自宅で公開でやったんですけど、非常に大きな反響がありました。自分も楽しめたし。これは、2006年にAachenのRaum für Kunstっていうところで、カタログのこの展覧会の時です。このポツポツポツポツと並んでいるこれらは、白と黒に塗り分けられているけどサイズはどれも同じ。同じですが、別にエディションでもなければなんでもありません。一つ一つが自分の意思を持った自分で考える力のある作品たちです。この作品たちを対話させるっていうのかな、それが一つの狙いでした。
梅津 これはすごくおもしろいですよね。
倉智 ありがとうございます。これはたんたんたんと並んでいるのがすごくいいんですよ。一冊の本くらいの大きさで小さいんです。
梅津 箱の側面の意識は立ち上がってくるけれども、柵のような構造になっていて、非常におもしろいです。表現に関わる要素が少ないタイプの作品は、表面上似ているものが多く、作品の峻別が難しいという問題がありますが、少なくとも、私はこういうタイプの作品をほとんど見たことがありません。しかし現実に実現してしまうと、あ、こういうやり方があったのかと気付かされるわけです。矩形の面を見ている時に、背景の壁と作品のキワの部分に意識が高く働きます。壁の質感や色味と、作品の材質や質感や光の条件と、何かが違っていて、厚みや影によって、その物体を認識しています。つまり、この柵のような構造は、矩形のプレートを認識する時に人間の意識がはたらいている部分が実体化しているように見えます。この柵みたいなものがない形状でプレートがかけられていて、それを長い時間かけて見ている時に生じてくるなにごとか、それこそ倉智さんが言っていたような、実体のない事象とか心理状況とか、それらがなんらかのかたちで物象化している、という感じがあります。その作品に向き合った時に発生する何かがすでに物体として形状化されている、それを見る、その経験が自分に返ってくる、という循環と反芻のプロセスに追い込まれていく。カタルシスがあると同時に、何かを突きつけられているという感覚もあります。
倉智さんのなかで長い時間をかけてあるアイデアが浮かんで、それを実行に移して作品化する、そういうプロセスがあるわけですが、そこで出てきたものがもっている必然性や説得力を、このタイプから感じます。こちらも近いタイプですか?
倉智 近いタイプです。同じように作品を並べていて、手前のほうは分厚いアクリル板なんです。これは不思議なことに、この5個の高さが全部同じなんです。アクリル板の厚さによって台の高さを1センチずつくらい変えてある。だから横から見たらすーっと水平になって、なかに描かれている四角が深くなっていたり浅くなっていたりするんです。これは非常に苦労してつくった(笑)。この時アクリルを使ったのは、「空間」ですよね、空間をかためてみせようとしたらほかに素材って考えられなくて。ちょっと高くて自分でできないから扱いにくかったんですけど。
梅津 よくわかります。空間を見せるためのアクリル板という話がありましたが、ミニマル・アートのところでも話したように、メッシュ状の構造や光が透過する非実体性という特徴は、この傾向の表現では重要です。特に、アクリルは、ボリュームを持っているのにもかかわらず視覚的に透過する素材として注目されます。自然物としては氷のように保存のきかないものはありますが、近代社会、工業社会になり、物質や素材に対する人間の感性はあきらかに変わってきています。なので、古典的な芸術の延長では捉えきれない問題があります。アクリルのかたまりにしても、オブジェではなく、空間である、という捉え方が必要です。表面の平滑さ、光の反射・透過、あるいは光の吸収、そうした問題は表立って語られることはあまりないですが、ミニマル・アートやコンクリート・アートのように、自然主義・人間主義とは違うところで、人工的にものを作ることが芸術であるという観点に立った時、作家を超えた共通性という意味で重要です。倉智さんも、アクリルを厚みをもたせて使っていますね。
倉智 空間なんですよ、アクリルの厚み自体が小さくても。アクリルの薄いのでつくった箱じゃダメなんです、アクリルのかたまりでないと。
梅津 これは今回の展覧会で出品されているものと近いタイプですか?
倉智 近いタイプです。これはベルリンのMies van der Rohe Hausっていうところで展覧会をさせていただいた時の写真です。この時にピンときましてね。こういうふうに展示しましたら、やっぱりモノなのか絵画なのか……、ぜひこれは延長して、自分のためにいろんなバリエーションでやってみようと。これはSai Galleryでの2013年の展示ですが、ちょっと色も使いました。
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梅津 これはひとつの典型的な表現手法ですね。壁に設置されていますが、箱状のボリュームがあるのでオブジェクティブにみえます。
倉智 そしてまた壁に同じようにペイントしたものもあります。
梅津 倉智さんのなかで、これは面の表現である、三次元の形態をもっているけれども面的な表現としてどう成り立つのかを探っている、ということですよね。
倉智 そこはすごく好きな展示です。いろんな可能性が考えられるし、色の問題もね、赤と黒が入っていたり。
梅津 このあたりは今回の佐賀町の展示に。
倉智 似ている、というか、私がいつもしている窓の仕事ですね。
梅津 この作品のアイデアはどういうところからきているのでしょうか?
倉智 アイデアっていうか、思いつきのアイデアではありません。これも長ーいこと考えて。2005年くらいかな、この枠と黒いキャンバスだけの対比をオープンアトリエでやってみた。機会があるごとにあの窓の作品が欲しいとおっしゃってくださる方が多いので作っているんですけれど、作るたびにすごく新鮮です。説明したらつまらなく見えてしまうと思うんですけれども、これは何か一つの装置みたいで。ぽこっと抜けていく無限のイリュージョンと、そして何か物体であるところの美術作品との対比です。
梅津 このシリーズはいまのところ黒が多いですか?
倉智 黒が多いですが赤もやったことがあります。だいたい黒がすごく気が落ち着いてきれいだと思います。
梅津 これは倉智さんが長い時間かけて考えつかれた対比ですね。
倉智 本当に。ジャッドじゃないけど、いつも伴っている私の芸術への疑問ですね。イリュージョンなのか、モノなのか。
梅津 今回の展示で拝見してすごく面白くて。展示されているのは、これに近いタイプで、一枚のプレートで、フレームが延長されてここが抜けている……。
倉智 違いますよ、これも二枚です。
梅津 一枚というのは、見た目上、そう見えるという意味でした。例えば、こちらの三等分されている作品などとの対比で。
倉智 これは三等分したんです、単純に。
梅津 ということですよね。
倉智 窓の大きさと後ろに見える風景からして。あの三等分もよいでしょう?
梅津 すごく面白いと思います。こちらは見た目上、受け手の側からすると、長い板のここだけがくり抜かれているようにも見えます。そうするとプレートの実体性、物体としての黒という感じが強い気がします。それに対して、抜けていく部分がある。一方、こちらは三等分ですよね?
倉智 空間分割みたいに。
梅津 ここは先ほどの作品と同じように、黒いフレームがあって、向こう側に現実の空間が抜けているので、空間の抜けという感じがありますが、こちらは黒い面があるような実体感は強くなく、抜けているような気がします。フレームの方は視覚的に透過しますが、面の方も黒い板があるという認識ではなく、黒が光を吸収する感覚です。
倉智 黒はキャンバスです。
梅津 キャンバスというものがあるのではなくて、何も見えない黒い空虚がここにある、確認することはできないですが、そういう感覚になる、ということです。そうするとフレームの方が抜けているのとは違う意味で、黒い面の方も抜けている、と感じます。
倉智 ありがとうございます。私、時々そんなこと言われるんですよ、自分のアトリエで壁を黒く塗ったりしていることがあるんです。そうすると来た人が、このまま壁に入っていけそうな気がするって。
梅津 まさに、そう感じます。アクリルのかたまりがボリュームではなくて空間であることとか、メッシュ状の構造のようにボリュームがあるけれども視覚的には透過することと対比的に、黒は光を吸収していくので、黒い物体があるのではなく、このエリアは抜けている、存在していない、と感じるのです。
倉智 すうーっと、どこに落ちていくのかしら、みたいに。
梅津 現実の世界にあって黒い四角として視覚的には認識できるけれども、実際には何も存在していない非実体世界がそこにあるという感覚です。その対比で考えた時に、何が起きているのだろうという不思議さがあります。
最後に、サブストーリーとして「黒」というテーマを取り上げたいと思います。2013年に、川村記念美術館で「BLACKS」という展覧会が開催されました。彫刻のルイーズ・ニーヴェルスン、絵画のアド・ラインハート、写真の杉本博司さん、三人の作家による「黒」という展覧会でしたが、この時に講演会を依頼され、「黒」というテーマについて考えました。それが今日の倉智さんの話と、光の透過・反射・吸収という問題と関わるので、ざっとスライドを見てみたいと思います。
これは、ベークライト、最初のプラスチックといわれるもので、人工的な素材としての「黒」です。プラスチックにつながる質感は昔の社会にはなかったのですが、いつのまにかそういうものが私たちの日常を囲み、デザインの世界で広く使われています。これはナウム・ガボ。新しい素材であるプラスチック、アクリル、ナイロンの糸などよる透明な彫刻です。構成主義の代表格ですが、光が抜けていく感覚が重要だと思います。これは斎藤義重。構造・形態に集中させるために、マットな艶消しの黒で塗られています。
これは「BLACKS」展の出品作家、ニーヴェルスンの作品です。色々な廃材などを拾ってきて、全部黒く塗って、ボックスの中に押し込めていく。黒にすることで本来の用途が軽減し、形態的な興味だけが浮かび上がってきます。あと黒ではないですが、バーネット・ニューマンの残念ながら売却されてしまった作品です。
倉智 『アンナの光』ですか? 残念……!
梅津 広い赤に対して、白のエリアが左右にあります。作品の赤、作品の白、壁の白。ここの認識で何が起きるかというところが、先ほど倉智さんの作品で柵みたいな構造が立ち上がっていた作品と関連すると思います。これは「BLACKS」展の出品作家、ラインハートです。倉智さんはラインハートについては?
倉智 大好きです(笑)。
梅津 (笑)。黒と影響関係がありますね。
倉智 すごく仕事も丁寧だし、私大きな個展をボトロップのMuseum Quadratで見たんです。びっくりしました、こんないい作家だったのかと。
梅津 これはステラですね。少し脱線しますが、作品の物理的なかたちと、作品に描かれたかたちが一致している、反復しているという指摘は、モダニズム、フォーマリズムの批評において重要とされています。しかし、私は、黒と黒の間の白には奥行を感じるので、フラットな絵だとは思っていません。ステラのブラック・ペインティングは、絵画の平面化の代表格とフォーマリズム批評では言われますが、作品を見た感覚としては、奥行があって、そんなフラットな絵ではないです。この作品には物理的なパネルの厚みがあります。私の感覚では、この作品にはわずかな奥行があり、その視覚的に把握できる奥行と、このパネルが持っている物理的な奥行が、実は一致するのではないかと考えています。これは倉俣史郎さんの作品で、まさにアクリルのかたまり。
倉智 (笑)。
梅津 こういう表現はこの素材がないと実現しません。これはデザインの分野ですが、物質がもっている可能性とか、オブジェクティブなものだけではなくて、重力/無重力とか、あとは時間が止まっている感覚とか、そういう感覚も出てきているように思います。
これはジャッドの絵画です。イリュージョンを生まないためにも黒が大事です。砂やアスファルトなどを混ぜたテクスチャーを作ったりしていますが、転機となったのが、ニューヨーク近代美術館が持っているこの作品です。これはパンを焼く型を中に埋め込んでいます。当然、厚みが要請され、パンを焼く型という現実に存在しているものによって奥行が規定されています。先ほど奥行について指摘したステラのブラック・ペインティングと同じような構造が画面内にあるので、ジャッドはステラの作品を見ていてこの作品を作っている可能性もあります。
こちらの作品に使われているのは、拾ってきたパイプです。ジャッドの作品集では、良くパイプが見える側から撮った写真が紹介されますが、私は、こちらは裏で、パイプが埋め込まれた面の方が作品だと思っています。絵画的な面に測定不能なイリュージョンを生む円を描くのではなく、実際に奥行を持っているパイプで、物理的に確認できる構造として作ったはずです。
倉智 ふふふ(笑)。
梅津 パイプが埋め込まれた黒の円は、倉智さんの窓の作品の黒でも指摘したような、空洞としての面となります。こちらは、単純なかたちの作品ですが、プレキシグラスの効果によって、内側と外側が反転するかのような感覚が生じます。こちらは、ドイツのバーデン・バーデンで発表された、トップライトで上からの光で見せる作品です。中に仕切りがあり、仕切りのエッジと底のプレキシグラスの反射で深さがわかりにくくなります。その効果で、エッジが滲んでくるとバーネット・ニューマンのようにも見えてきます。
こちらは桑山忠明のベークライトという素材を使った作品です。近年はチタンも使われていて、表面の人工的な質感や光の反射などが重要になってきます。こちらは、ラリーベルです。透明な素材を使うことで、空間とボリュームが表現できます。倉智さんは面にこだわった作品、フレームの作品、アクリルの作品、空間を見せる作品など、60年代のミニマル・アート系の作家の表現傾向と共鳴する部分があるのかなあという気がします。
倉智 ありますね。
梅津 次は、タイプが変わりますが、日本の作家で遠藤利克。
倉智 最近の作品ですか?
梅津 これは最近です。こちらは、成田克彦の作品で、1970年の東京ビエンナーレに出品された炭の作品です。炭の黒というのは色彩の黒ではなく、物質の黒です。「黒」というテーマについて色々考えましたが、炭には、浄化、不純物を取り除く、フィルターとして使う、という効果があるので、最後に成田克彦が出てきて、「視覚の濾過」ということを考えました。人間の目がものを見ていく時に、さまざまな情報を収集する中で、不純な雑居物の入った視覚が、「黒」というフィルターによって、浄化され、視覚がいったんリセットされる、それを「視覚の濾過」と表現してみたのです。おそらく倉智さんの作品でも、光の吸収によって実体性を希薄にしていく、そんなフィルター機能や濾過機能を備えた「黒」の意味もあるのではないか、そう考えて、駆け足でお見せした次第です。
倉智 私が使っている黒は炭の黒じゃなくて、なんかね、象牙の黒って書いてあるんです。ピグメントの袋に。だからやっぱりちょっとモノ的な黒です。
梅津 そうであっても、物質的な気がしないですよね。こちらは、いまの展示にありますよね? この作品も見ていると右側の黒が抜けて見えてきます。ここにものがかかっているのではなく、ここだけが抜けている、という風にしか見えてこない。
倉智 あら、そう?(笑)。それは直接描いてないのに?
梅津 うーん、描いてなくても……もちろん、物理的なものとしての存在は明確です。あれは金属でしたっけ?
倉智 アルミニウムです。
梅津 認識できるということと、知覚することは、必ずしも一致しません。時間をかけて作品に向き合って見続けると、その黒は、実体のある何かが存在しているというよりも、存在していない状態として、体感できてしまうのです。
倉智 なんか白とか黒ってそういう色ですよね。白っていうのは光の色だし、白々と夜が明けるとかいうじゃないですか。黒の場合は何も見えなくなって無限のなかに吸い込まれていくような。
梅津 はい。これも対比的に展示されていますが、その効果も強いと思います。
倉智 ここの少し右側を塗り残しているでしょう? これがポイントで、これがあるから横に黒をもってこれるっていうのが私の感覚なんです。それがなぜか、理屈ではなくて感覚的なものですけれど。すごく絵が描きたくて絵が描きたくてね、長年。で、描く対象がないから、なんとかして絵筆を動かそうっていうのは、もう、人が聞いたらかわいそうなくらいの努力をして……、そして一昨年ちょっと病気しましてね、久しぶりにアトリエに行った時、「よし、まだ絵を描くぞ」と思って始めたのがこの白い絵。
梅津 なんか変ですよね……。今の展示では、先ほどスライドで紹介してお話していただいたこのタイプのものがありますよね。壁に取り付ける向きを変えれば、正面と側面がかわって、奥行がある状態での展示もありえますか。
倉智 そうです。そういうのも作りましたよ。そしてこれを置いたらこの絵画の説明みたいになってしまう。これも微妙な面白いところなんですよ、「モノ」か「絵画」か。
梅津 そうですよね。これは平面に描かれた作品としてあるけれども、別な立体的な構造のある作品のひとつの面と見ることもできる。
倉智 これよりこっちのほうがもの的でしょう? こっちのほうが実際にはものなのに、この絵画のほうがもの的に見える。
梅津 逆転していますよね。この作品、私は好きですね。
倉智 ありがとうございます。私もこれ大好きです。
梅津 これはおかしなことが起きていますよね。この縁のところが、少し違う色に見えてきます。
倉智 そう、地の色が。
梅津 地の色が細く周囲を回っているわけですね。
倉智 白で刷ってあります。
梅津 少し内側に白で刷ってあり、ここに黄色があります。この塗り残しの地の部分が同じ色であると頭ではわかっていますが、この黄色の影響の有無で、エリアによっては違う色に見えるんです。
倉智 本当ですか。
梅津 いや、本当にそうですよ。写真ではわかりませんが、黄色の影響下にあるエリアは、あきらかに色味が違います。いくら見てもわからないです(笑)。
倉智 ふふふ(笑)。
梅津 黄色から離れている色は安定していますが、黄色の影響下にある色は、比べると違って見えます。しかし、色に違いはなく、グラデーションの推移を目で追うと、受けとめる側で色に変化が起きていることがわかります。側面のエッジが斜めから見えますが、このエッジが見えてくることによって、面の周囲のエリアと小口の断面のエッジの認識がぶれてきて、すごくおかしなことが起こります。角度によっては、小口のエッジが、この画面上に描かれている構成要素とクロスしてくる感じがあって、さほど厚みのない作品ですが、物体としての存在感と何かがショートするような、変なことが起きています。いくら見ても見飽きないという感じがします。
倉智 ありがとう。
梅津 というように、これはひとつの事例であって、私がそう見たというだけのことなのですが、素っ気なく見えるもの、控えめに見えるもの、造形的な要素が限られているものであっても、それを生み出すに至るアーティストの長い思索と展開があります。
それを受けとめた時に、言葉にもできなくても、よくわからなくても、何かに惹かれてしまう。あるものはおもしろく、あるものはそうは思わない。アーティストを質問攻めにしても、その答えが出るわけではないし、聞きたいことはたくさんありますけど、短絡的な答えを期待しているわけではありません。今日も色々な画像をお見せしながらあの手この手でお話をお聞きしたのは、アーティストがものを立ち上げてくる過程をどうにか浮かび上がらせられないか、という意図からでした。ありがとうございました。
(2016年2月28日 3331 Arts Chiyoda 306にて)

 

トークを終えて
「マーファ、チナティでの経験がご縁の梅津さん、充実した対話をありがとうございました。エルパソ空港からマーファに向かうあの乾燥しきった赤い山の連なる圧倒的な自然の激しさは、海原を見つめるときの感動にも似て、多くの芸術家を惹き付けてやまないものだったろう、と、思い返します。オキーフが描いていたのは彼女の心象ではなく、無という現実だったんだなあ、と、今なお心に残る風景です。このトーク、そしてこの展覧会を礎石に、またこれからも同じ疑問に向かってポツポツと仕事をすすめてゆく所存です。小池さん、良い機会を与えて下さってありがとうございました。また、スタッフとして協力頂いた皆様、当日会場にいらしてくださった皆様、ありがとうございました。」
(倉智久美子)

「貸画廊が発表の主たる場所だった頃、佐賀町エキジビット・スペースは、現代美術の現場として稀有な存在でした。歴史と文化を伝える建築が擁する広い空間は本当に魅力的で、そこで行われる展覧会やイベントに何度も足を運びました。その活動を受け継ぐ佐賀町アーカイブのトークに呼んでいただき、とても光栄でした。倉智さん、小池さん、ありがとうございました。倉智さんとの対話では、<見ること>から作品を構想する、作品から受ける刺激から思考を展開する、その思考を作品と向き合う時に想起する、また新たな発見がある、そんな風に、常に<見ること>に立ち返ることの重要さ、そして、そこから芸術を立ち上げるスリリングな局面が掘り下げられ、とても大きな刺激を受けました。当日、会場に足を運んでくださった方々、関係者の皆様に、改めて感謝申し上げます。」
(梅津元)

「倉智さんが梅津さんの名を挙げてくださったとき、このトークの企画の成功が約束されたように思いました。もの派のシンポジュウムなどで最も多忙な時期にトーク出席とその準備のお時間をいただいことを梅津さんに心からお礼申し上げます。倉智さんは居住し制作すると選んだドイツから作品とともに来てくださって実に練り上げたコンセプトの展観をしてくださったこと、本当に何回も拍手を送りたくなります。
ミニマル・アートと一応呼んできたこの方向に改めて目を向け、なぜ我々はそこに拘るのかを考える機会が再び生まれました。倉智さんはミニマルというよりコンクリートの方がとおっしゃる、カタカナ表現ですが、私も同感です。「ミュージック・コンクレート」の方が現代音楽の中で確立されているように思いますが美術領域ではさらに追跡の魅力のある主題ですね。
佐賀町アーカイブとしては、今回のトークをサイトに上げることをうれしく思います。質の高いお話の内容で、心して読む方がきっといらっしゃると思います。会場で参加してくださった方々にもお礼を申し上げます。ありがとうございました。」
(小池一子)

 

 

投稿者:naito 投稿日:2016年06月22日