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「アート・素材・修復」

投稿者:naito 投稿日:2017年10月18日

アート作品を持つ、買う人への身近な講座シリーズ始まる!


佐賀町プロジェクトでは、この秋より連続講座、 コンサバター(絵画修復士)田口かおりさんの『アート・素材・修復』を開催いたします。
イタリアで学んだ絵画修復士としての確かな基礎と知識と技術に加え、今を生きる現代美術にまで調査研究を膨らませている田口かおりさん。近年では「臭気」についての国際シンポジウムを企画し、興味深い議論を展開しました。本講座は、田口さんの修復の実践の中から、多様化する素材、重視されるコンセプト、また一過性作品の再制作のオリジナリティなどと、現代美術作品への新しい視点を探り、保存修復の根源的な問いかけをする最前線の講座となります。
美術作品を創り出す人にも、それを残したい人にも、広く美術を愛する人達に開かれた講座です。多くの方のご参加をお待ちしています。

【講座内容】(全5回、15:00〜16:30)
2017年11月11日(土) 保存修復とはなにか:「時間 tempo」と「イメージ imagine」
            ※11月11日の講座は終了いたしました。
2017年12月 2日(土) 現代美術の保存修復:不安定な永続性と記憶の保存
            ※12月2日の講座は定員に達したため、募集を終了しました。
2018年 1月13日(土) 暴力をめぐる諸問題 :切り裂かれた絵、叩き壊された彫刻
        ※2018年1月13日の講座は定員に達したため、募集を終了しました。
2018年2月10日(土) 美術作品と「臭気」:私たちは「におい」をいかに保存・展示するのか
2018年3月10日(土)「最小限の介入」と「予防的修復」:コレクションを守るためにできること
(全回通して受講されることをお薦めします。単発受講もお受けします。)

◎講師 :田口かおり
◎定員 :15名
◎受講料:1回3,500円(資料代込み)
     5回連続申込の場合は特別割引になります。
     (通常17,500円→15,000円)
◎持ち物:筆記用具。
◎会場 :佐賀町プロジェクト(3331 Arts Chiyoda 306室)
           東京都千代田区外神田6-11-14 3331 Arts Chiyoda
     東京メトロ銀座線末広町駅4番出口より徒歩1分
◎お問合せ:info@sagacho.jp        
◎お申込み:メール申込み:info@sagacho.jp
表題を『アート・素材・修復』とし、氏名、メール(返信用)、参加希望日を明記のうえお申込みください。お申込みいただいた方にはお支払方法を記載した確認メールをお送りします。2、3日してメールが届かない場合は再度ご連絡ください。

【講座について】 田口かおり
 保存修復に携るものとして、私は日々、さまざまな作品に出会い、触れ、調査を行っています。そこで考えるのは、ほかでもない「芸術作品のライフ」、つまり作品の「生」のことです。
 保存修復は、美術作品を延命するための技として、古くは古代ギリシア時代から行われてきました。それだけ古い歴史をもつ保存修復ではありますが、実際のところ、作品の「生」のために本当に保存修復というものが必要なのか、また、その方法論がいかなるものであるべきか、本格的な検討がはじまったのは近代になってからのことです。
 現代において、美術作品の保存修復は、よりいっそう複雑なものとなりつつあります。多様な素材からなり、様々な展示形態をとる現代美術は、ときに「死」という選択肢すら見据えながら、生成と消滅の記憶を紡ぎます。
 あらゆる美術作品にとって、そして私たちにとって、保存修復とは一体何を意味する行為なのか。本講座では、この大きなテーマについて、さまざまな事例を手がかりに考えていきます。講座を重ねるなかで、そもそも作品の「生」とは一体何なのか、作品は何をもって生き、何によって生かされているのか、という、より根源的な問いをめぐる思索へと、導かれていくことになるでしょう。 


田口かおり(たぐちかおり)
1981年東京都生まれ。フィレンツェ国際芸術大学(Universita’ Internazionale dell’Arte Firenze)絵画修復科修了後、修復工房Studio Venerosiにて絵画修復士として勤務。 2013年、京都大学人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。専門は保存修復理論、保存修復史。 現在、東海大学創造科学技術研究機構特任講師。 近著に『保存修復の技法と思想――古典芸術・ルネサンス絵画から現代アートまで』(第七回表象文化論学会賞)。 2015年からは、現代美術の保存修復を研究主題とし、国内外での調査に関わる他国際シンポジウムなどにも積極的に登壇している。2016年には「現代美術の保存と修復」を主題とする愛知トリエンナーレ企画シンポジウムにパネリストとして参加。 2017年6月には「『臭気』の現代美術」と題した国際シンポジウムを主催し、現代美術が放つ複合的な「におい」についていかなる 保存・修復・再展示が可能かを、ニューヨーク近代美術館キュレーター・ロジャー・グリフィス氏や、韓国の現代作家イ・ウォノ氏と共に検討した。直近の論文に「保存修復とX線の『暴力性』-キャサリン・ジルジュ《スザンナと長老達》をてがかりに」(『表象』第 11 号、2017年4月、pp. 234-pp. 253 「井田照一《タントラ》(1963-2006)の技法研究と保存処置」(『東北芸術工科大学紀要』No. 17、2017年3月)などがある。


“NAOKI drawings @ sagacho archives”

投稿者:naito 投稿日:2017年04月12日

佐賀町アーカイブでは3331アーツ千代田 メインギャラリーで開催される佐藤直樹個展「秘境の東京、そこで生えている」との同時開催として”NAOKI drawings @ sagacho archives” 展を開催致します。
 
佐藤直樹さんの制作を見る機会が重なるうちにこの仕事を伝搬したいと思うようになりました。作家と伴走するのにどの方法がいいか、私たちは常に検討しますが、佐藤さんのあふれ出てくるイメージが作品となったものは買って持ち帰ってもらいたいというのが結論です。
ディーリングをあまりしてこなかった佐賀町アーカイブとしては新方向です。作家の衝動、生き方、制作物に共感して、それを伝える最も効果的な方法は販売、みなさまのお出でをお待ちします。
 
展覧会情報
  会期:2017年4月30日(日)〜6月11日(日)
 開催日:金・土・日・祝 13:00〜19:00
  会場:佐賀町アーカイブ(地下・B110)
     東京都千代田区外神田6-11-14  3331 Arts Chiyoda B110
アクセス:東京メトロ銀座線 末広町駅4番出口より徒歩1分
 
佐藤直樹個展「秘境の東京、そこで生えている」公式サイト
http://ithasgrown.com
 
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作家のことば
2010年から2011年にかけて、荻窪を歩き、目についた建物を描いた。そうしたら、廃墟の街みたいになってしまった。そのあと地震があって、植物を眺めるようになっていた。植物は何を考えているのだろう。描いて描いて描きまくったら少しは何かわかるようになるのだろうか。少しも何もわからなかったとしても、わかりたい気持ちが高まっているのだから、何とかしなければならない。それ自体、自分勝手で申し訳ないようなことだけれど。2010年より前の絵は、今見るとあまりにも何でもない。
 
 
作家プロフィール
佐藤直樹[さとう・なおき]
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1961年東京都生まれ。北海道教育大学卒業後、信州大学で教育社会学・言語社会学を学ぶ。美学校菊畑茂久馬絵画教場修了。1994年、『WIRED』日本版創刊にあたりアートディレクターに就任。1998年、アジール・デザイン(現アジール)設立。2003~10年、アート・デザイン・建築の複合イベント「セントラルイースト東京(CET)」をプロデュース。2010年、アートセンター「アーツ千代田 3331」の立ち上げに参画。サンフランシスコ近代美術館パーマネントコレクションほか国内外で受賞多数。2012年からスタートしたアートプロジェクト「トランスアーツ東京(TAT)」を機に絵画制作へと重心を移し、「大館・北秋田芸術祭2014」などにも参加。札幌国際芸術祭2017バンドメンバー(デザインプロジェクト担当)。3331デザインディレクター。美学校「絵と美と画と術」講師。多摩美術大学教授。http://satonaoki.jp/

 
 
 
 
 

倉智久美子展 トークイベント (後編)

投稿者:naito 投稿日:2016年06月22日

「私はアトリエにひとりでいる時間をとても大切に考えている。簡単な角柱や平凡な四角いキャンバスなどを一日中じっと見ている。それはモノであって、未だ芸術ではない。それをどうやって芸術にするのか、それを壁にかけるのか、それを床に置くのか、その色を壁や床にも塗り広げるのか、それは存在しているのか、それはそのように見えているだけなのか、長いこと考えて、彩色の構図を決める。」
<倉智久美子「アーティストの言葉 佐賀町アーカイブでの展覧会に寄せて(2016.1.4)」より>

梅津 この箇所も非常に印象的です。ジャッドが展示室で長く過ごすことから作品の着想を得るのと同じように、アーティストの中で作品がどのように立ち上がってくるのか、そこにとても興味があります。コンクリート・アート、コンクリート・クンストという言葉を倉智さんから提示していただきましたが、存在していない作品を存在する形にもっていく、そのためにアトリエで過ごす長い時間と、作品化の過程をお聞きしたい。簡単に言葉では語れないことは重々分かっていますが、ここで書かれていることを、もう少し実態に近いレベルで伺いたいです。
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倉智 いや、きっと感覚的にわかってもらっていると思うんですが、なかなか上手に説明できないですけれどーー。たとえば、これだってなんでもないものですよね、ぺらいなんでもないもの。これを芸術にしようと思うと、やっぱり何かしなきゃまだ芸術ではない。どういうふうに置くか、本だからめくるのか、めくっていく時に何を感じるのか、あるいはこうページを開いて立てかけてものにするのかーー。こういうことは、いつもいつも私とともにあって、考えます。これで説明になっているでしょうかね。空間にすうっとロープを張った、これで空間の見え方がぽんと変わって、これだけが切り取られた空間になる、そのあと壁に色を塗りました、そしてその中にも作品を入れ、外にも入れました。これは作品の限界がどこまでなのかちょっとよくわからない、ですが、空間から何かが立ち上がってくる。色彩、そして空間。これは非常に実験的な私の仕事です。自分は気に入っているんですけれども。なんて説明したらいいんでしょう……、説明できないから作っているんです!
梅津 いま私が読ませていただいた文章のなかで、アトリエで過ごす時間のことが書かれています。どこかで展示が決まっていたとしても、単体で成立する作品をアトリエで構想するという段階が重要でしょうか。
倉智 私はいつも作っているっていう状態を目指しているので、展覧会があるから作るっていうことはないです。
梅津 はい。一方で、この作品にしても、発表の空間に即して計画を考えることもあるわけですよね。
倉智 そうです。わりとこのあたりは自分のためにやった実験のような仕事でね、自分はそんなことがすごく好きで面白かったんです。これも自分のためにやった実験的な仕事で、この右側の正方形は私の身長165センチ角なんですが。こういうふうに壁にテープを貼っただけですけど、こうした時に何が空間から立ち上がってくるのか。それと対話する形で正方形の作品を置いたり、角柱を置いたり。これ、結論はなくて、自分のためにした仕事です。
梅津 自分で構想したことを形にして、展示空間を実現して、それを自分でまた反芻する、受けとめる。
倉智 そうです。
梅津 そのプロセスがすごく大事ということですよね。
倉智 これはすごく楽しかった。次のも見てください。これもちょっとおかしいでしょ。角柱と、その角柱を描いたスケッチがあるじゃないですか。これが立体だからスケッチしたくなるわけ、絵を見てスケッチをしたくなるっていうことはない。私はスケッチをする、なぜならこれが立体だから、っていう。まあそんな感じの理論ですよね。その次は、先ほどの165センチ角の正方形の外側を白く塗ったの。これは自宅で公開でやったんですけど、非常に大きな反響がありました。自分も楽しめたし。これは、2006年にAachenのRaum für Kunstっていうところで、カタログのこの展覧会の時です。このポツポツポツポツと並んでいるこれらは、白と黒に塗り分けられているけどサイズはどれも同じ。同じですが、別にエディションでもなければなんでもありません。一つ一つが自分の意思を持った自分で考える力のある作品たちです。この作品たちを対話させるっていうのかな、それが一つの狙いでした。
梅津 これはすごくおもしろいですよね。
倉智 ありがとうございます。これはたんたんたんと並んでいるのがすごくいいんですよ。一冊の本くらいの大きさで小さいんです。
梅津 箱の側面の意識は立ち上がってくるけれども、柵のような構造になっていて、非常におもしろいです。表現に関わる要素が少ないタイプの作品は、表面上似ているものが多く、作品の峻別が難しいという問題がありますが、少なくとも、私はこういうタイプの作品をほとんど見たことがありません。しかし現実に実現してしまうと、あ、こういうやり方があったのかと気付かされるわけです。矩形の面を見ている時に、背景の壁と作品のキワの部分に意識が高く働きます。壁の質感や色味と、作品の材質や質感や光の条件と、何かが違っていて、厚みや影によって、その物体を認識しています。つまり、この柵のような構造は、矩形のプレートを認識する時に人間の意識がはたらいている部分が実体化しているように見えます。この柵みたいなものがない形状でプレートがかけられていて、それを長い時間かけて見ている時に生じてくるなにごとか、それこそ倉智さんが言っていたような、実体のない事象とか心理状況とか、それらがなんらかのかたちで物象化している、という感じがあります。その作品に向き合った時に発生する何かがすでに物体として形状化されている、それを見る、その経験が自分に返ってくる、という循環と反芻のプロセスに追い込まれていく。カタルシスがあると同時に、何かを突きつけられているという感覚もあります。
倉智さんのなかで長い時間をかけてあるアイデアが浮かんで、それを実行に移して作品化する、そういうプロセスがあるわけですが、そこで出てきたものがもっている必然性や説得力を、このタイプから感じます。こちらも近いタイプですか?
倉智 近いタイプです。同じように作品を並べていて、手前のほうは分厚いアクリル板なんです。これは不思議なことに、この5個の高さが全部同じなんです。アクリル板の厚さによって台の高さを1センチずつくらい変えてある。だから横から見たらすーっと水平になって、なかに描かれている四角が深くなっていたり浅くなっていたりするんです。これは非常に苦労してつくった(笑)。この時アクリルを使ったのは、「空間」ですよね、空間をかためてみせようとしたらほかに素材って考えられなくて。ちょっと高くて自分でできないから扱いにくかったんですけど。
梅津 よくわかります。空間を見せるためのアクリル板という話がありましたが、ミニマル・アートのところでも話したように、メッシュ状の構造や光が透過する非実体性という特徴は、この傾向の表現では重要です。特に、アクリルは、ボリュームを持っているのにもかかわらず視覚的に透過する素材として注目されます。自然物としては氷のように保存のきかないものはありますが、近代社会、工業社会になり、物質や素材に対する人間の感性はあきらかに変わってきています。なので、古典的な芸術の延長では捉えきれない問題があります。アクリルのかたまりにしても、オブジェではなく、空間である、という捉え方が必要です。表面の平滑さ、光の反射・透過、あるいは光の吸収、そうした問題は表立って語られることはあまりないですが、ミニマル・アートやコンクリート・アートのように、自然主義・人間主義とは違うところで、人工的にものを作ることが芸術であるという観点に立った時、作家を超えた共通性という意味で重要です。倉智さんも、アクリルを厚みをもたせて使っていますね。
倉智 空間なんですよ、アクリルの厚み自体が小さくても。アクリルの薄いのでつくった箱じゃダメなんです、アクリルのかたまりでないと。
梅津 これは今回の展覧会で出品されているものと近いタイプですか?
倉智 近いタイプです。これはベルリンのMies van der Rohe Hausっていうところで展覧会をさせていただいた時の写真です。この時にピンときましてね。こういうふうに展示しましたら、やっぱりモノなのか絵画なのか……、ぜひこれは延長して、自分のためにいろんなバリエーションでやってみようと。これはSai Galleryでの2013年の展示ですが、ちょっと色も使いました。
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梅津 これはひとつの典型的な表現手法ですね。壁に設置されていますが、箱状のボリュームがあるのでオブジェクティブにみえます。
倉智 そしてまた壁に同じようにペイントしたものもあります。
梅津 倉智さんのなかで、これは面の表現である、三次元の形態をもっているけれども面的な表現としてどう成り立つのかを探っている、ということですよね。
倉智 そこはすごく好きな展示です。いろんな可能性が考えられるし、色の問題もね、赤と黒が入っていたり。
梅津 このあたりは今回の佐賀町の展示に。
倉智 似ている、というか、私がいつもしている窓の仕事ですね。
梅津 この作品のアイデアはどういうところからきているのでしょうか?
倉智 アイデアっていうか、思いつきのアイデアではありません。これも長ーいこと考えて。2005年くらいかな、この枠と黒いキャンバスだけの対比をオープンアトリエでやってみた。機会があるごとにあの窓の作品が欲しいとおっしゃってくださる方が多いので作っているんですけれど、作るたびにすごく新鮮です。説明したらつまらなく見えてしまうと思うんですけれども、これは何か一つの装置みたいで。ぽこっと抜けていく無限のイリュージョンと、そして何か物体であるところの美術作品との対比です。
梅津 このシリーズはいまのところ黒が多いですか?
倉智 黒が多いですが赤もやったことがあります。だいたい黒がすごく気が落ち着いてきれいだと思います。
梅津 これは倉智さんが長い時間かけて考えつかれた対比ですね。
倉智 本当に。ジャッドじゃないけど、いつも伴っている私の芸術への疑問ですね。イリュージョンなのか、モノなのか。
梅津 今回の展示で拝見してすごく面白くて。展示されているのは、これに近いタイプで、一枚のプレートで、フレームが延長されてここが抜けている……。
倉智 違いますよ、これも二枚です。
梅津 一枚というのは、見た目上、そう見えるという意味でした。例えば、こちらの三等分されている作品などとの対比で。
倉智 これは三等分したんです、単純に。
梅津 ということですよね。
倉智 窓の大きさと後ろに見える風景からして。あの三等分もよいでしょう?
梅津 すごく面白いと思います。こちらは見た目上、受け手の側からすると、長い板のここだけがくり抜かれているようにも見えます。そうするとプレートの実体性、物体としての黒という感じが強い気がします。それに対して、抜けていく部分がある。一方、こちらは三等分ですよね?
倉智 空間分割みたいに。
梅津 ここは先ほどの作品と同じように、黒いフレームがあって、向こう側に現実の空間が抜けているので、空間の抜けという感じがありますが、こちらは黒い面があるような実体感は強くなく、抜けているような気がします。フレームの方は視覚的に透過しますが、面の方も黒い板があるという認識ではなく、黒が光を吸収する感覚です。
倉智 黒はキャンバスです。
梅津 キャンバスというものがあるのではなくて、何も見えない黒い空虚がここにある、確認することはできないですが、そういう感覚になる、ということです。そうするとフレームの方が抜けているのとは違う意味で、黒い面の方も抜けている、と感じます。
倉智 ありがとうございます。私、時々そんなこと言われるんですよ、自分のアトリエで壁を黒く塗ったりしていることがあるんです。そうすると来た人が、このまま壁に入っていけそうな気がするって。
梅津 まさに、そう感じます。アクリルのかたまりがボリュームではなくて空間であることとか、メッシュ状の構造のようにボリュームがあるけれども視覚的には透過することと対比的に、黒は光を吸収していくので、黒い物体があるのではなく、このエリアは抜けている、存在していない、と感じるのです。
倉智 すうーっと、どこに落ちていくのかしら、みたいに。
梅津 現実の世界にあって黒い四角として視覚的には認識できるけれども、実際には何も存在していない非実体世界がそこにあるという感覚です。その対比で考えた時に、何が起きているのだろうという不思議さがあります。
最後に、サブストーリーとして「黒」というテーマを取り上げたいと思います。2013年に、川村記念美術館で「BLACKS」という展覧会が開催されました。彫刻のルイーズ・ニーヴェルスン、絵画のアド・ラインハート、写真の杉本博司さん、三人の作家による「黒」という展覧会でしたが、この時に講演会を依頼され、「黒」というテーマについて考えました。それが今日の倉智さんの話と、光の透過・反射・吸収という問題と関わるので、ざっとスライドを見てみたいと思います。
これは、ベークライト、最初のプラスチックといわれるもので、人工的な素材としての「黒」です。プラスチックにつながる質感は昔の社会にはなかったのですが、いつのまにかそういうものが私たちの日常を囲み、デザインの世界で広く使われています。これはナウム・ガボ。新しい素材であるプラスチック、アクリル、ナイロンの糸などよる透明な彫刻です。構成主義の代表格ですが、光が抜けていく感覚が重要だと思います。これは斎藤義重。構造・形態に集中させるために、マットな艶消しの黒で塗られています。
これは「BLACKS」展の出品作家、ニーヴェルスンの作品です。色々な廃材などを拾ってきて、全部黒く塗って、ボックスの中に押し込めていく。黒にすることで本来の用途が軽減し、形態的な興味だけが浮かび上がってきます。あと黒ではないですが、バーネット・ニューマンの残念ながら売却されてしまった作品です。
倉智 『アンナの光』ですか? 残念……!
梅津 広い赤に対して、白のエリアが左右にあります。作品の赤、作品の白、壁の白。ここの認識で何が起きるかというところが、先ほど倉智さんの作品で柵みたいな構造が立ち上がっていた作品と関連すると思います。これは「BLACKS」展の出品作家、ラインハートです。倉智さんはラインハートについては?
倉智 大好きです(笑)。
梅津 (笑)。黒と影響関係がありますね。
倉智 すごく仕事も丁寧だし、私大きな個展をボトロップのMuseum Quadratで見たんです。びっくりしました、こんないい作家だったのかと。
梅津 これはステラですね。少し脱線しますが、作品の物理的なかたちと、作品に描かれたかたちが一致している、反復しているという指摘は、モダニズム、フォーマリズムの批評において重要とされています。しかし、私は、黒と黒の間の白には奥行を感じるので、フラットな絵だとは思っていません。ステラのブラック・ペインティングは、絵画の平面化の代表格とフォーマリズム批評では言われますが、作品を見た感覚としては、奥行があって、そんなフラットな絵ではないです。この作品には物理的なパネルの厚みがあります。私の感覚では、この作品にはわずかな奥行があり、その視覚的に把握できる奥行と、このパネルが持っている物理的な奥行が、実は一致するのではないかと考えています。これは倉俣史郎さんの作品で、まさにアクリルのかたまり。
倉智 (笑)。
梅津 こういう表現はこの素材がないと実現しません。これはデザインの分野ですが、物質がもっている可能性とか、オブジェクティブなものだけではなくて、重力/無重力とか、あとは時間が止まっている感覚とか、そういう感覚も出てきているように思います。
これはジャッドの絵画です。イリュージョンを生まないためにも黒が大事です。砂やアスファルトなどを混ぜたテクスチャーを作ったりしていますが、転機となったのが、ニューヨーク近代美術館が持っているこの作品です。これはパンを焼く型を中に埋め込んでいます。当然、厚みが要請され、パンを焼く型という現実に存在しているものによって奥行が規定されています。先ほど奥行について指摘したステラのブラック・ペインティングと同じような構造が画面内にあるので、ジャッドはステラの作品を見ていてこの作品を作っている可能性もあります。
こちらの作品に使われているのは、拾ってきたパイプです。ジャッドの作品集では、良くパイプが見える側から撮った写真が紹介されますが、私は、こちらは裏で、パイプが埋め込まれた面の方が作品だと思っています。絵画的な面に測定不能なイリュージョンを生む円を描くのではなく、実際に奥行を持っているパイプで、物理的に確認できる構造として作ったはずです。
倉智 ふふふ(笑)。
梅津 パイプが埋め込まれた黒の円は、倉智さんの窓の作品の黒でも指摘したような、空洞としての面となります。こちらは、単純なかたちの作品ですが、プレキシグラスの効果によって、内側と外側が反転するかのような感覚が生じます。こちらは、ドイツのバーデン・バーデンで発表された、トップライトで上からの光で見せる作品です。中に仕切りがあり、仕切りのエッジと底のプレキシグラスの反射で深さがわかりにくくなります。その効果で、エッジが滲んでくるとバーネット・ニューマンのようにも見えてきます。
こちらは桑山忠明のベークライトという素材を使った作品です。近年はチタンも使われていて、表面の人工的な質感や光の反射などが重要になってきます。こちらは、ラリーベルです。透明な素材を使うことで、空間とボリュームが表現できます。倉智さんは面にこだわった作品、フレームの作品、アクリルの作品、空間を見せる作品など、60年代のミニマル・アート系の作家の表現傾向と共鳴する部分があるのかなあという気がします。
倉智 ありますね。
梅津 次は、タイプが変わりますが、日本の作家で遠藤利克。
倉智 最近の作品ですか?
梅津 これは最近です。こちらは、成田克彦の作品で、1970年の東京ビエンナーレに出品された炭の作品です。炭の黒というのは色彩の黒ではなく、物質の黒です。「黒」というテーマについて色々考えましたが、炭には、浄化、不純物を取り除く、フィルターとして使う、という効果があるので、最後に成田克彦が出てきて、「視覚の濾過」ということを考えました。人間の目がものを見ていく時に、さまざまな情報を収集する中で、不純な雑居物の入った視覚が、「黒」というフィルターによって、浄化され、視覚がいったんリセットされる、それを「視覚の濾過」と表現してみたのです。おそらく倉智さんの作品でも、光の吸収によって実体性を希薄にしていく、そんなフィルター機能や濾過機能を備えた「黒」の意味もあるのではないか、そう考えて、駆け足でお見せした次第です。
倉智 私が使っている黒は炭の黒じゃなくて、なんかね、象牙の黒って書いてあるんです。ピグメントの袋に。だからやっぱりちょっとモノ的な黒です。
梅津 そうであっても、物質的な気がしないですよね。こちらは、いまの展示にありますよね? この作品も見ていると右側の黒が抜けて見えてきます。ここにものがかかっているのではなく、ここだけが抜けている、という風にしか見えてこない。
倉智 あら、そう?(笑)。それは直接描いてないのに?
梅津 うーん、描いてなくても……もちろん、物理的なものとしての存在は明確です。あれは金属でしたっけ?
倉智 アルミニウムです。
梅津 認識できるということと、知覚することは、必ずしも一致しません。時間をかけて作品に向き合って見続けると、その黒は、実体のある何かが存在しているというよりも、存在していない状態として、体感できてしまうのです。
倉智 なんか白とか黒ってそういう色ですよね。白っていうのは光の色だし、白々と夜が明けるとかいうじゃないですか。黒の場合は何も見えなくなって無限のなかに吸い込まれていくような。
梅津 はい。これも対比的に展示されていますが、その効果も強いと思います。
倉智 ここの少し右側を塗り残しているでしょう? これがポイントで、これがあるから横に黒をもってこれるっていうのが私の感覚なんです。それがなぜか、理屈ではなくて感覚的なものですけれど。すごく絵が描きたくて絵が描きたくてね、長年。で、描く対象がないから、なんとかして絵筆を動かそうっていうのは、もう、人が聞いたらかわいそうなくらいの努力をして……、そして一昨年ちょっと病気しましてね、久しぶりにアトリエに行った時、「よし、まだ絵を描くぞ」と思って始めたのがこの白い絵。
梅津 なんか変ですよね……。今の展示では、先ほどスライドで紹介してお話していただいたこのタイプのものがありますよね。壁に取り付ける向きを変えれば、正面と側面がかわって、奥行がある状態での展示もありえますか。
倉智 そうです。そういうのも作りましたよ。そしてこれを置いたらこの絵画の説明みたいになってしまう。これも微妙な面白いところなんですよ、「モノ」か「絵画」か。
梅津 そうですよね。これは平面に描かれた作品としてあるけれども、別な立体的な構造のある作品のひとつの面と見ることもできる。
倉智 これよりこっちのほうがもの的でしょう? こっちのほうが実際にはものなのに、この絵画のほうがもの的に見える。
梅津 逆転していますよね。この作品、私は好きですね。
倉智 ありがとうございます。私もこれ大好きです。
梅津 これはおかしなことが起きていますよね。この縁のところが、少し違う色に見えてきます。
倉智 そう、地の色が。
梅津 地の色が細く周囲を回っているわけですね。
倉智 白で刷ってあります。
梅津 少し内側に白で刷ってあり、ここに黄色があります。この塗り残しの地の部分が同じ色であると頭ではわかっていますが、この黄色の影響の有無で、エリアによっては違う色に見えるんです。
倉智 本当ですか。
梅津 いや、本当にそうですよ。写真ではわかりませんが、黄色の影響下にあるエリアは、あきらかに色味が違います。いくら見てもわからないです(笑)。
倉智 ふふふ(笑)。
梅津 黄色から離れている色は安定していますが、黄色の影響下にある色は、比べると違って見えます。しかし、色に違いはなく、グラデーションの推移を目で追うと、受けとめる側で色に変化が起きていることがわかります。側面のエッジが斜めから見えますが、このエッジが見えてくることによって、面の周囲のエリアと小口の断面のエッジの認識がぶれてきて、すごくおかしなことが起こります。角度によっては、小口のエッジが、この画面上に描かれている構成要素とクロスしてくる感じがあって、さほど厚みのない作品ですが、物体としての存在感と何かがショートするような、変なことが起きています。いくら見ても見飽きないという感じがします。
倉智 ありがとう。
梅津 というように、これはひとつの事例であって、私がそう見たというだけのことなのですが、素っ気なく見えるもの、控えめに見えるもの、造形的な要素が限られているものであっても、それを生み出すに至るアーティストの長い思索と展開があります。
それを受けとめた時に、言葉にもできなくても、よくわからなくても、何かに惹かれてしまう。あるものはおもしろく、あるものはそうは思わない。アーティストを質問攻めにしても、その答えが出るわけではないし、聞きたいことはたくさんありますけど、短絡的な答えを期待しているわけではありません。今日も色々な画像をお見せしながらあの手この手でお話をお聞きしたのは、アーティストがものを立ち上げてくる過程をどうにか浮かび上がらせられないか、という意図からでした。ありがとうございました。
(2016年2月28日 3331 Arts Chiyoda 306にて)

 

トークを終えて
「マーファ、チナティでの経験がご縁の梅津さん、充実した対話をありがとうございました。エルパソ空港からマーファに向かうあの乾燥しきった赤い山の連なる圧倒的な自然の激しさは、海原を見つめるときの感動にも似て、多くの芸術家を惹き付けてやまないものだったろう、と、思い返します。オキーフが描いていたのは彼女の心象ではなく、無という現実だったんだなあ、と、今なお心に残る風景です。このトーク、そしてこの展覧会を礎石に、またこれからも同じ疑問に向かってポツポツと仕事をすすめてゆく所存です。小池さん、良い機会を与えて下さってありがとうございました。また、スタッフとして協力頂いた皆様、当日会場にいらしてくださった皆様、ありがとうございました。」
(倉智久美子)

「貸画廊が発表の主たる場所だった頃、佐賀町エキジビット・スペースは、現代美術の現場として稀有な存在でした。歴史と文化を伝える建築が擁する広い空間は本当に魅力的で、そこで行われる展覧会やイベントに何度も足を運びました。その活動を受け継ぐ佐賀町アーカイブのトークに呼んでいただき、とても光栄でした。倉智さん、小池さん、ありがとうございました。倉智さんとの対話では、<見ること>から作品を構想する、作品から受ける刺激から思考を展開する、その思考を作品と向き合う時に想起する、また新たな発見がある、そんな風に、常に<見ること>に立ち返ることの重要さ、そして、そこから芸術を立ち上げるスリリングな局面が掘り下げられ、とても大きな刺激を受けました。当日、会場に足を運んでくださった方々、関係者の皆様に、改めて感謝申し上げます。」
(梅津元)

「倉智さんが梅津さんの名を挙げてくださったとき、このトークの企画の成功が約束されたように思いました。もの派のシンポジュウムなどで最も多忙な時期にトーク出席とその準備のお時間をいただいことを梅津さんに心からお礼申し上げます。倉智さんは居住し制作すると選んだドイツから作品とともに来てくださって実に練り上げたコンセプトの展観をしてくださったこと、本当に何回も拍手を送りたくなります。
ミニマル・アートと一応呼んできたこの方向に改めて目を向け、なぜ我々はそこに拘るのかを考える機会が再び生まれました。倉智さんはミニマルというよりコンクリートの方がとおっしゃる、カタカナ表現ですが、私も同感です。「ミュージック・コンクレート」の方が現代音楽の中で確立されているように思いますが美術領域ではさらに追跡の魅力のある主題ですね。
佐賀町アーカイブとしては、今回のトークをサイトに上げることをうれしく思います。質の高いお話の内容で、心して読む方がきっといらっしゃると思います。会場で参加してくださった方々にもお礼を申し上げます。ありがとうございました。」
(小池一子)

 

 

倉智久美子展 トークイベント (前編)

投稿者:naito 投稿日:2016年06月22日

「ミニマルアート、ドイツの美術。倉智さんと梅津さんが語る午後。」

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小池 アーティストの倉智久美子さん、それから埼玉県立近代美術館のキュレーターでいらっしゃいます梅津元さん。宜しくお願いします。
梅津 倉智さんとは今回の展覧会の初日にお目にかかったのが20年ぶりとまではいかないにしても、相当久しぶりでした。アメリカ・テキサス州のマーファにチナティ・ファウンデーションという、ドナルド・ジャッドが生前ディレクターを務めていた広大な現代美術の展示施設がありますが、そこがアーティスト・イン・レジデンスでアーティストの受け入れをしています。1999年に埼玉県立近代美術館と滋賀県立近代美術館で開催しましたドナルド・ジャッドの展覧会の調査や出品交渉のために、(1998年の)夏のテキサスに行きましたが、ちょうど倉智さんがアーティスト・イン・レジデンスで滞在されていて、真夏の灼熱のテキサスで自転車に颯爽と乗っていた倉智さんの姿を鮮明に覚えています(笑)。では早速ですけれど、京都市立芸術大学で学ばれていた学生時代のこと、1970〜80年代の日本の美術状況のなかでアーティストを志望して活動を始められた頃のお話をうかがえたらと思います。
倉智 私、今日いらしているみなさんよりかなり世代が上でして、1978年の京都芸大卒業なんです。そのころ現代美術は非常に停滞期でした。あまり、わっという運動もなく、多くの人が版画に流れた時代です。私は「何かしたい、こんなんじゃないわ、何かしたいわ!」って思っていたんですけども、当時の自分にできたことは、現代美術をしている有名貸画廊で個展をする、そして『美術手帖』などの展評に書いていただく、そうすると喜んでまたやるということで。そうしていると、なんだかむなしくなってしまってだんだん疲れてくるんです。で、一回、非常に長くかなり強い決心でもって、もうやめようと思いまして。ところが、90年に入ってから、大阪に「ギャラリー白(Gallery Haku)」っていう、そこも貸画廊ですけども多くの新しい傾向を取り上げていたギャラリーがあったんですが、そのギャラリーの鳥山さんっていう方が、一回やってみないかっておっしゃってくださったんですね。で、そう言ってくれるんだったらやろうかなって思って、「もしやるんだったらもうやめないわ。やめないでずっとやれることをやりましょう、それはなんだろう?」って。そのスタンスがなんとなく自分にはあったんです。
それで、小池さんに白(Haku)で展覧会することになりましたって言ったら、うちでもやってってすぐに言ってくださって、それがこの展覧会、1994年の9月でした。すごく光栄なことにあの広い佐賀町を思いっきり使わせていただいて。
この時に考えていたのは、「これは何であるか」。この、壁にずっとインスタレーションのようになっているのは、額がちょっと浮いていましてね、浮いた額の上にあたかも置かれたかのように紙が展示されているんです。実際には中身が少し浮いているんですが。床にペイントしたのは、「これは色彩というものだろうか、それとも絵画だろうか」という、そういうふうな疑問です。こういうスタイルは、俗にいうミニマル・アートの人たちはよく使っていますよね。この横線と縦線を一緒にするっていうのは、平面を生み出したい、平坦な面を生み出したいという気持ちだと思います。これは、よく似た構図、よく似た仕事を私は非常にたくさん見るんですが、なるほど、みんな同じような地平の上でそれぞれの疑問と格闘されているんだなあ、と思います。こう、グリッド状になったものとか。これも佐賀町の時の展覧会のものですが、これも「壁にかかるべきか、床に置かれるべきか」。「モノ」なのか、それとも「絵画」なのか、「色彩」なのかっていう。もっと話していいんですか?
梅津 それくらいにしておきましょうか(笑)。学生の時に、版画に流れる人が多かったという話がありましたね。
倉智 非常に多かった。
梅津 ご自分の方向性というのは、迷いはなかったのでしょうか?
倉智 迷いましたよ、私も一回は版画にいきましたもん。半年ですぐ挫折してやめましたけど。
梅津 その時に、たとえば大学で教えている方、著名なアーティストの方だとか、あるいは学校に関係なく、影響を受けたアーティストの方はいるのでしょうか?
倉智 関西の作家でいうと私が当時いちばん好きだったのは村岡三郎さん。それから小清水漸さん。
梅津 小清水さんは京都芸大で教えてらっしゃいましたよね。
倉智 それが入れ違いだったんですよ、私が出た時にこられた。
梅津 なるほど。
倉智 あの頃、関西にはいい作家はいっぱいおられました。
梅津 東京圏から見ていても、京都芸大はいい作家さんがたくさん出てくる学校だなと思っていました。学校を出て作家活動している方がまた教えに来る、というふうなかたちで、刺激的な空気があるのかなという感じがしますね。作品の説明で、「壁から少し浮かせている」、「物質なのか色彩なのか」、「平面・面を作りたい」、「垂直・水平・矩形」といった指摘があり、「似たようなことをしている作家を多く見かける」という今日のテーマに関わる話もありました。倉智さんはいわゆるモダニズム的な表現に興味があり、その方向で仕事を始められていますが、日本の美術状況が違う方向に行き始めて息苦しさを感じ、発表を途中で中断することも考えざるをえなかったのだろうかと、お話を聞いて思いました。自分が考えている方向性と当時の日本の美術状況の違和感、やりにくさを感じていましたか。
倉智 感じていましたけども、それだけじゃないんです。こうやって言うのもみっともないんですけど、当時は有名貸画廊がたくさんありまして、やっぱり、そこが美術の現場だったんです。また発表したいと思うと、また借りなきゃいけない、そうすると制作時間がすごく短くなってしまう。そういうことに対するジレンマもすごく大きかったと思います。自分は、何はなくてもこれを続けたい、ずーっとやり続けられることをしようと思いました。
梅津 モダニズムの延長上には、シンプルでストイック、表現している要素が少ないタイプの芸術、つまり、自分の記憶や感情、具象的なモチーフ、説明的な物語などを排除した芸術が、確実に存在しています。表面上似ているものが多くなった時に、このタイプの作品は説明しがたく、それらを峻別するのが難しくなります。
私が興味を持っているのはアメリカのミニマル・アートと呼ばれる動向です。80年代半ばに美大に学びましたが、ニュー・ペインティング、ニュー・ウェイブなど、ポスト・モダン的な方向に時代が推移していく時期で、ミニマル・アートの勉強はやりにくい状況でした。単に惹かれてしまう、どうしようもなく好きだという根拠がありますが、時代的に先行する大きな成果があると、それを引きずっていると見られてしまう。必然性のある表現だとしても、類型上、ミニマリズムの亜流に見えてしまうことが避けられず、後続の世代は損する部分があるわけです。ミニマル・アートを類型としてとらえてしまうと、本当に良質なものと、スタイルとして消費しているだけの亜流が一緒になり、大事な成果が葬り去られてしまう。そうならないように、良質な成果とは何か、いまだに魅力をもって引き出せるものは何か、ということを見極めたいのです。私が長年こだわっているのはこの問題です。
今日のテーマの一つにもなっていますが、アメリカの美術はトレンディな転換をするし、マーケットも絡んで推移しており、ミニマル・アートの成果をよく引き継げなかった部分があるようです。一方、倉智さんが滞在されているドイツ、あるいはオランダなど、むしろヨーロッパの方がこの動向をきちんと受けとめて、次の芸術を成り立たせようというアーティストが出てきていますね。
倉智 アメリカは、ヨーロッパの作家にとっても一つの舞台だと思います。アメリカで成功するっていうのはドイツの田舎の作家にとったらグローバルで夢に近いことです。アメリカでは世界中のいい作品が見られるし、アメリカで大きな展覧会が開けるということは国際的に認められたっていうことですから。だけどそれはすっと流れ去っていくんですね。
私が本当にドイツっていいなって思ったのは、80年代の終わりにアメリカのディア・アート・ファウンデーションで、ヨーゼフ・ボイス、イミ・クネーベル、ブリンキー・パレルモというドイツの作家の三人展を見た時でした。アメリカのミニマル・アートと何か違う、なんというか身体サイズなんですね、無理のないサイズのミニマル。その時私には、その作品自身も自分で考える、作品自体も意思を持っているかのように見えたんです。それですごくびっくりしてしまって。その時、自分はまだ若くて、ドイツについて何も知らなかった。なんでそんなところでその三人が展覧会をやっているのかとアメリカ人に訊いたら、デュッセルドルフの有名な美術大学があって、ヨーゼフ・ボイスはそのプロフェッサーで、あとの2人は彼の学生だったのだというふうに聞かされて、「へぇ、デュッセルドルフ!? それどこにあるんだろう?」と思いまして。
梅津 (笑)。
倉智 それから10年かかって、いつのまにかそこに自分も行ったわけですけれども。いや、アメリカもそういう舞台という意味ではいいと思いますけど、ただ次々次々アートシーンが流れていってしまうんです。
ヨーロッパのいいところは、……ちょっと話を飛ばしますけど、「Konkret Kunst (コンクリート・クンスト)」っていうものがありまして。「Konkret」っていうのは、直訳すると「具体」なんです。具体というと日本の具体美術協会がみなさんのあたまにはぱっと浮かぶでしょうけども。何が具体的かというと、具体的でないものを具体的に見せる。「Gegenstandslos」、つまり、対象がないものを具体的に見せる。たとえば非常に落ち込んだ感情とか、永遠を求めるような気持ちだとか、終わりがない、果てがない、あるいは非常に高揚したものとか、そういうふうなものをなんとか具体的に色と形で表そうとしたものが、コンクリート・クンストと呼ばれています。
梅津 コンクリート・アート、ドイツ語ですとコンクリート・クンスト。日本ではあまり馴染みがなく、しかも「具体」と訳すと混乱が生じやすいのですが、音楽の分野では「ミュージック・コンクレート」、詩の分野では「コンクリート・ポエトリー」という分野があります。ここに重要な問題があります。アメリカでは、抽象表現主義、カラーフィールド・ペインティングからミニマル・アートが生まれるまで、抽象化ないし還元主義、つまり、色々な要素を削ぎ落として最終的にミニマルなものに至るという歴史の流れと芸術の展開があるため、どうしても「削ぎ落としていく」という意味での「ミニマル」という言葉に頼ってしまいます。しかし、何かを排除していくというネガティヴなアイデンティティーではなく、倉智さんが説明してくださったように、「コンクリート・アート」という立場をとれば、「実体的な対象をもたない事象を芸術として存在させる」というスタンスが明確になります。芸術作品は、具体的に存在しているので、具体的ではないモチーフに形を与えるというスタンスが明確になると、何かを削ぎ落とすという手法とは、ベクトルがまったく逆になります。
倉智 そのとおり。
梅津 色なり形なり、具体的に感覚可能なものとして芸術作品を存在させるためにはどうすればよいか。このスタンスは、ミニマル・アートを支える衝動に含まれているはずなのですが、美術史上の還元主義や抽象化と混同されてしまい、厄介なことが起きています。一方、ヨーロッパではコンクリート・アートの伝統がしっかり根付いていて、アメリカにおけるミニマル・アートも、「コンクリート・アート」という大きな枠の中で、そのアメリカ的な展開と位置付けられています。
モダニズム的な抽象度の高い表現を志向すると、「それはミニマル・アートの焼き直し」と言われてしまうことがありますが、「芸術作品をこの世に存在させたいという根本的な衝動」があり、それは時代・地域・文化に左右されるものではなくて、人間が芸術作品を作りたいという欲求の根幹にあるはずです。それを類型的に、時代遅れとみなしたり、様式的なパターンに閉じ込めたりするのではなく、個別に作品を見ていく必要があるのです。では、次に進みましょうか。
倉智 これはマーファのチナティで作った作品の表面だけが写っています。その次にいってください、これが全体です。メインの作品はこの箱の上に寝ているものなんですが。絵画は、立ち上がるべきか、壁にかけられるべきか、モノとしておかれるべきかーー、これは、作品がどうあるべきかと考えて。気に入った作品です。
梅津 素材は何ですか?
倉智 紙とビーワックスと水彩絵の具です。台座をいれて80センチくらいの高さだったと思います。自然に見下ろせる机くらいのテーブルです。
梅津 今回展示されている倉智さんの作品にしても、物体的なボリュームをもっているタイプと、フラットな面的なタイプと両方あります。それはミニマル・アート的な表現の成果で、絵画が物体化していく面もあるけれど、三次元に移行したとしても彫刻を志向しているわけではないのです。倉智さんの作品でも、箱状であるとか、壁から突き出ているとか、三次元的なボリュームがあったとしても、オブジェや彫刻を作りたいということではないはずです。視覚的な表現を成り立たせるという意味では絵画に近く、自分が実現したいヴィジョンを実現するために要請された構造が、厚みであったり箱状の形であったり、ということではないでしょうか。
倉智 そう。
梅津 それを、「ミニマル・アートは絵画から彫刻へ移行した」とか、「平面から立体へと移行した」と短絡的に解釈してしまうと、重要な問題を見落としてしまう。立体的な構造があっても決して彫刻には接近していないところに重要な問題がある。倉智さんもおそらく、オブジェを作りたいわけではなく、床に置かれているからといって彫刻を志向しているわけではなく、もっと面的な表現を……。
倉智 絵画ですよね、絵画を夢みている。
梅津 そうですよね、私の言葉では「視覚性」が重要です。望むべき視覚性を実現するために、形状が二次元の場合もあれば三次元の場合もある、ということが、多くの作家に見られると思います。
倉智 これはちょっと実験的な作品です。ロープを部屋の中に張って、やっぱり空間をとらえようとした。そのロープの下側と上側に小さな作品がかけてあります。
梅津 これは何年頃の作品ですか?
倉智 2000年です。ドイツへ行く直前くらい。
梅津 倉智さんの話はこのあともまだ作品を映しながら伺いますが、ここで、話に出ているミニマル・アートに照準をあわせて、スライドを紹介しながらお話をして、倉智さんのご意見を伺うというトピックに入りたいと思います。
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本からの複写は、パンザ・コレクションという、イタリアの有名なコレクターの作品で開かれた展覧会のカタログを参照しています。とりあえず感覚的にざっと作品を見ていただきます。まずカール・アンドレ。単位となるものを並べていく代表的なスタイルです。
倉智 この素材は何ですか?
梅津 スタイロフォームという断熱や防音のための建築資材ですね。
倉智 先ほどのは?
梅津 あれは金属、工業製品ですね。次はダン・フレイヴィン。ミニマル・アートというと、ドナルド・ジャッド、カール・アンドレ、ロバート・モリスをはじめ、どこまで含めるかという問題はありますが、フレイヴィンは代表的な作家とされています。よく考えると不思議で、オブジェクティブではなく、絵画的でもなく、蛍光灯をインスタレーションしていく仕事で、非物質的な光、色彩、空間が主題です。ミニマル・アートの重要な作家として括られていながら、語られることが少ない。これは蛍光灯を壁のように林立させ、裏側の青い蛍光灯の列と背中合わせになっています。手前は黄色、裏側は青色で満たされ、境界は色が混ざって緑になります。レディメイドの蛍光灯を見せるというコンセプチュアルな面よりも、光の霧で満たされた空間を知覚していく魅力があります。先ほど倉智さんのお話にもあった「モノなのか色彩なのか」、「色彩なのか光なのか」、そうした問題があります。
これはドナルド・ジャッド。これはロバート・モリス。オフ・ホワイトやグレーを使って、ニュートラルな幾何学的な形を扱うものもあれば、メッシュ状の素材を使って、ボリュームの透過/不透過を対比する、あるいは先ほどの倉智さんの作品のように、実体として存在しない面をフレームだけで感覚させるなど、実験的な方法が試みられています。オブジェクティブであるより、インスタレーション的な体験型の作品に接近しています。
ジャッド、フレイヴィン、モリス、作品の良し悪しとは別に、彼らの作品から、共通する質、共通する感覚が感じられます。ボリュームがあっても、石や木のような重さや実体感がなく、すかすかした抜けた感覚、平滑な平面、光の反射、光の透過など、実体性の希薄さという共通項があります。石や木を削って彫刻をつくるという方法に対して、ものが存在していても実体感が希薄で構造を把握する視線は抜けてしまう、表面がつるつるで軽く見える、あるいはフレイヴィンのように光で空間を満たしているなど、実体性の希薄さが指摘できます。このあと、私と倉智さんが98年に遭遇したチナティ・ファウンデーションですね。
倉智 この「コンクリート・ピース」っていうのは本当に地平線までだーっとあるんですよ。ね?
梅津 端から端まで歩くだけでも大変。夏なので草が伸びて作品のエッジが見えていない写真ですが、荒涼としたところに規格サイズにあわせたバリエーションでコンクリートのピースがあります。中に人が寝そべったりできるくらいのスケール感です。
倉智 ここはもう本当にジャッドの理想郷ですね。
梅津 ですね。ちょっと話がずれますが、ジャッドがここを拠点にしたのは、美術館が短期間で作品を展示替えするので、理想的な環境を作れないことへの不満からです。ジャッドには、自分の作品を、自分が望む状態で展示してほしいという非常に単純な欲望がありました。理想的な条件が確保できる展示を、できる限り恒久的に保つことがベストだと考えたのです。ですから、このコンクリートのピースも、屋外に設置されて以来、ずっとこの場所にあります。マーファには3回行きましたが、その存在をまったく忘れている時がほとんどです。たまにこの作品のことを考えますが、「あそこに存在している」ことが揺るがないことを、長い時間かけて感じるようになりました。やっぱり、作品は存在しているけれども展示されていないことは多いですし、作品が物理的に存続し得ないこともある。そういう意味で、こういう作品を作って残したことの重さを感じます。
これは「プログレッション」と呼ばれるジャッドの典型的なタイプです。横長の作品ですが、コの字状の細長い部屋で、歩いていくと、曲がる度に次の作品が現れるように、作品にふさわしくなるよう建物を改修して展示空間を作っています。基本的には展示替えをせずに、この展示が長く保たれます。作品を移動させて展覧会を組むのではなく、見たい人がそこに行く。作品の存在のさせ方、鑑賞形態のあり方に関して、根本的な課題を突きつけてきます。
「コンクリート・ピース」とともに有名なのが、格納庫を改修した部屋にあるアルミの作品です。かまぼこ屋根の格納庫二つに、全体で100点の作品が入っています。外側のプロポーションは一緒ですが、全部バリエーションが違います。整然と並んでいて、人工照明は一切なく、すべて自然光、窓からの採光だけです。入った瞬間、仰け反るような、痺れる感覚に襲われ、言葉を失うとはまさにこのことなのかと感じます。
倉智 うん。
梅津 先ほど話した理想的な展示環境を実現するという意味ならば、パーフェクトな照明を作って、その条件が揺らがないのがベストだと思うのですが、自分で改修して窓を作っていることからもわかるように、光の関係で作品の様相が変わることは許容しています。作品の同一性が揺らがないという自負があるのでしょう。歩くと自分の足音が反響し、見ている経験自体が作品から跳ね返される感覚があります。
先ほど倉智さんが絵画ということを出されて、壁なのか床なのか、立体なのか面なのか、という問題が出ました。ジャッドも絵画を物体化させて箱みたいな作品を作ったと言われますが、箱が作りたかったわけではなく、自分が望む「視覚性」を手に入れるためにこのような構造が要請されたはずです。ビューポイントを探すと、必ずこういう面が成り立つことが、それを立証しています。絵画的な面が成り立ち、中央に仕切りがあり、片側は抜けているけれど、他方は斜めに板が渡っているとか、そういう仕掛けが必ずあります。こちらは、外側から見ると箱ですが内側に相似形にもう一つ入っていて、向こう側に抜けているので、面的に見え、しかも隙間は光の反射で奥行が感知不能です。ジャッドのヴィジョンでは浮かせたいのでしょうが、浮かないので下部に構造がありますが。奥行がわからなくなるため、箱状の形態であることもわからなくなります。だけど面ではなく、三次元的な奥行はあるので、「イリュージョンの逆」というようなことになっています。つまり、絵画が平面に三次元的な空間を表現しているとすると、ジャッドは、三次元的な構造を使って面的な視覚を成り立たせようとしている。
おそらく倉智さんがおやりになっていることも、この問題と関連していると思います。頭で三次元の箱の図式が描けることと、まさにいま自分が見ていることが一致しません。こちらも斜めから見れば形状がわかりますが、正面に近くなれば奥行が消失する見え方になります。ジャッドはバーネット・ニューマンの絵画を評価していましたが、そうした成果を絵画では乗り越えられないという問題から、こういう形状に移行したのだといえます。
思考が停止した状態で、たださまよい、時々しゃがんだり、先ほど紹介したような視点を見つけてなるほどと納得したり、時間もわからなくなり、何を見せつけられているのか、だんだんわからなくなっていくような空間です。これくらいにしておきましょうか。倉智さんのレジデンスは一年ですか?
倉智 マーファですか? たった3ヵ月。マリアナさんの意向がね、一人3ヵ月ずつ、一回に一人ずつ。5人も10人もいっぺんに呼ばないんです。だから私は前の人とも次の人とも会っていない。一人で何もないところで時間を過ごさせるっていうのが向こうのポリシーだったんです。
梅津 期間は短いけれども、ほかのアーティストと交流できるところで制作させるのではなく、完全に孤立させるということですね。
倉智 うん、「Artist spends almost all the time alone」って書いてありましたよ(笑)。それで私は自転車を買って一人でいつもアトリエから宿舎まで自転車をキコキコこいで、毎日毎日そうしていました。あのマーファっていう不毛の地の何が作家を引きつけるかっていったら、本当に何もないこと、それがすごく魅力的で。「almost all the time alone」っていう、その文句も何か心に響くものがあって。これはトライしてみようと思って行ったんですけど(笑)。
梅津 確かに他のことを一切考えない状態というか、ある意味で世捨て人じゃないですけど現実的な感覚を想起させる要素をとにかく排除していく点では徹底していますよね。芸術を立ち上げるということだけに向き合わせるため、複数の人を取らないで、短期間でもみっちり過ごしてもらう(笑)。
倉智 インターンの若い人達と共同で乗れる車が一台だけありまして、一日だけその車に一人で乗ってちょっと近くの温泉まで行きましたけど、それ以外、外出は一切していない。
梅津 わあ(笑)。
倉智 共同の車ですから、私が宿舎からアトリエに行くまでに使うとほかの人が乗れなくなる。だから自転車を買ったんです。
梅津 私も調査で何度か行っていますが、本当に「何もない」ということに圧倒され、そのことにショックを受けました。ジャッドは多数の建物を展示室に改修していますが、ソファとかカウチがあり、さりげなくスピーカーが置いてあるのが印象的でした。
倉智 ベッドも置いてありましたね。
梅津 そこで昼寝をしたり、本を読んだりしていたそうです。展示施設として他者に見せるための施設を作るというより、自分が自分の作品について考えるための空間を作り、長い時間をそこで過ごしていたわけです。人手にわたった作品はバージョンを作り直して自分の見えるところに置き、自分の作品と向き合うことから次の作品のアイデアを得ていく、そのことが非常によくわかりました。よく「芸術と生活」というようなタームが語られますが、単純にいうと、あ、展示室で生活しているんだ、と(笑)。だから生活空間に芸術作品を飾るとか、芸術と生活の融合とか、そういうことではなくて、「展示室で暮らしている」と。あ、こういうことなのかというショックが、すごくありました。
倉智 一応パブリックな場所だから、くしゃくしゃなシーツとかそんなものはない。ただきれいなベッドがありましたね。
梅津 あと長椅子が置いてあって。
倉智 私が思い浮かんだのは、ここで横になるんだ、ここで座るんだっていう、動作ですよね。動作がすごく思い浮かんで。アーティストとして羨望この上ない。
梅津 (笑)。
倉智 私も自分の作品でやってみたい。
梅津 ちょっと話が戻りますが、倉智さんが今回の展覧会のために書かれた文章を読んで、衝撃がありました。「私はモダニズムが好きである」という言葉に、打ちのめされました。
倉智 (笑)。
梅津 モダニズム、ポスト・モダニズム論争、美術史的な論考、あるいはフォーマルな美術批評など、モダニズムをめぐる議論はいくらでもありますが、「モダニズムが好きである」と書いてあるのを読んだことはありません。
倉智 ふふふ(笑)。
梅津 少なくとも私はなかったので、びっくりすると同時に、あ、自分も好きだけど、「モダニズムが好きである」と書いたことは一度もない、というショックがありました。好きだからこだわっているし、簡単に「終わった」と言われることに抗うわけですが、わあ、「好きである」って書いてある! と思ったんです(笑)。それは衝撃的な文章で、アカデミックな議論云々の前に、それが「好きである」という出発点があることは、すごく大事だなと。ご本人を前に僭越ですけれど読ませていただきます。

後編につづく

 

ワークショップ発足のお知らせ

投稿者:naito 投稿日:2015年09月17日

3331 Arts Chiyoda B1のギャラリー空間で展示を行いつつ
みなさまとの交流の中から何かが生まれることを願って、
3331の3階に一室設けました。佐賀町プロジェクトと言います。

最初の企画は「書」。素敵な書家、アーティスト、華雪(かせつ)さん
との出会いからシリーズで書のワークショップ発想が生まれました。
書に親しむ、挑む、なじむ、変えられる。いろいろな思いをこめています。
いわゆる書道教室でないことは確かです。

旧錬成中学校の教室のままの部屋ですが外光の降り注ぐ空間です。
ご参加をお待ちしております。

書のワークショップ『一字書』
『一字書』 とは
古代、中国の人たちは、世の中にあるさまざまなことひとつずつを、それぞれのかたちや性質、特徴をもとにして、象徴的な線画で表わしました。それは象形文字と呼ばれ、今、私たちが使っている漢字のかたちの元になっています。 そうした漢字の象形や本来の意味を認識した上で、現在使っている意味と向き合い、もしくは多様な捉え方で拡張し、書き手のその時々の思いを字に乗せて書く表現が『一字書』です。
『一字書』は、特に1960年代から70年代にかけ、森田子龍・井上有一らの「墨人会」が中心となり、鎌倉時代・江戸時代に盛んに書かれた禅僧の墨蹟や戦後欧米から流入した抽象絵画のエッセンスを取り入れながら、さまざまな表現方法——思考のプロセスや書きぶり——が追求されました。

  講師:華雪
開催日時:2015年10/10, 11/7, 12/5 2016年1/16, 2/13, 3/12
     (全6回 土曜日13:30 – 16:30)
  定員:5名(要予約)
 参加費:5,000円+材料費1,000円 計6,000円
     (お支払方法:会場でのお支払、ゆうちょ銀行振込)
 持ち物:筆記用具、メモ帳
     ※その他の道具はこちらで用意します。
     ※汚れてもいい動きやすい服装でご参加ください。
  会場:sagacho projects (3331 Arts Chiyoda 306室)
     東京都千代田区外神田6 -11-14 3331 Arts Chiyoda
     東京メトロ銀座線末広町駅4番出口より徒歩1分

問合せ・お申込み:info@sagacho.jp
表題を『一字書 申込み』とし、氏名、メール(返信用)、お電話番号、参加希望日、お支払方法を明記のうえお申込みください。お申込みいただいた方には確認メールをお送りします。届かない場合は再度ご連絡ください。
※6回通してご参加されることをお薦めいたします。1回からの参加もお受けします。
※ご連絡なくご欠席の場合は、キャンセル料を頂くことがございます。

【講師紹介】
kasetsu04-240
華雪(かせつ)
書家。1975年、京都府生まれ。92年より個展を中心にした活動を続ける。 〈文字を使った表現の可能性を探る〉ことを主題に、国内外でワークショップを 開催。舞踏家や華道家など、他分野の作家との共同制作も多数。
刊行物に「石の遊び」(2003年 平凡社)、「書の棲処」(06年 赤々舎)、「ATO 跡」(09年 between the books)、「それはかならずしも遠方とはかぎらない」(12年 hiromiyoshii)ほか。
「コレクション 戦争×文学」(集英社)をはじめ、書籍の題字なども手がけている。 www.kasetsu.info



佐賀町プロジェクト(sagacho projects)
〒101-0021 東京都千代田区外神田6 -11-14 3331 Arts Chiyoda 306
info@sagacho.jp